百選問題に思う

 ざーっ と流れを見ただけ、での感覚で発言すると、やはり、
「百選に入りたくて入りたくてしかたがなかった、でも入れなかった人、に対する精神的な・感情的なケアが足りない」
 と感じました。


 ここで、

・別の「百選」を別に作れば良い
・なんでそこまでその「百選」にこだわるか判らない

 と言うのは、「理屈」であって、「感情」に配慮したものではないと思います。


 僕がそう感じる理由。
 対象が、例えば自分の好きな、自分が一家言あるものについてで。同様のことが起きたら、やっぱり悔しくて悲しいだろうな、と思ったからです。
 これは本当に「感情」なので、いくら「理屈」を言われても解消はできないと思います。



『「あの人に回ったよ」「あの人に回らなかったね」というのも百選の「リレー方式の醍醐味」である』

 という意見があるようです。
 ここで僕がひっかかるのは、『あの人』。つまり他人、誰か、であって「私が」という観点じゃないんですね。「ああ、私には回らなかったな、残念」という感覚。これに共感できないと、きっといつまでも平行線なんだろうなと思います。


 以上、僕は「感情論である」という論を展開したわけです。が、感情論=くだらない、下等な論である、と考える人とはもうお話が出来ないかも。
 そもそも趣味の分野についての一家言、なんていう極めて個人の感情に根ざしたところから出てきた問題です。感情的になって当然だと思います。
 そこで、お互いの感情を思いやって、手を伸ばすこと、それが感情を持ち、社会を営んでいる人間の生きるための「知恵」であると私は思います。